2013/05/11
帚木蓬生『臓器農場』
帚木蓬生『臓器農場』の感想
臓器移植をテーマとした傑作。著者が現役の医者であり、医療関係の記述のリアリティが非常に高い。
移植用の臓器は普通脳死判定を受けた人から提供される。確か昨年だったと思うが、臓器移植の基準が緩められ場合によっては当人の意思が確認できなくとも移植できるようになった。
もっとも需要の方が大きいのは変わりないため、移植を受けられない患者も数多くいるという。
さらに悲惨なのは子どもの場合である。子どもの場合は単純に脳死という状況にいたる件数が少ないことに加え、臓器の大きさという問題が生じてくる。
大人の場合はよほど極端な体格でなければサイズの問題から移植できないということはない。しかし成長過程の子どもの場合当然体に見合った大きさのものである必要があるので、ますます移植を受けられる可能性が狭まるのである。
『臓器農場』は意図的に無脳症の胎児を作り出し、その臓器を移植するという行為を秘密裏に行なっている病院の話である。しかし無脳症児からの移植そのものが必ずしも倫理的に誤っているとはいえない。
作中の登場人物が語る「無脳症児は神様の贈りもので、それによって先天性の奇形をもった赤ん坊が全部救われる」というのは確かにひとつの考え方だろう。と同時に、主人公の「いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります」という言もまた否定しがたいものである。
話は変わるが、倫理学者のピーター・シンガーはしばしば悪の倫理学者などと批判される。それはシンガーが重度障害児などの安楽死を積極的に認める論陣を張っているからである。
生きたいという欲求(倫理学用語でいうところの選好)を持っていない存在に対して安楽死させることは功利主義的には不正とはいえないのがその理由である。
これは『臓器農場』で無脳症児からの移植を「純粋な信念」をもって推し進めた間島看護婦の考え方と近いものがある。
主人公が「間島看護婦を軽蔑する気にはなれない。おそらく彼女は自分なりの信念に基づいて行動していたのだ」と言っているが、私も間島看護婦やシンガーの考え方を否定できない。
しかし問題は人間には狂気というものがあることである。名誉や金銭に取り憑かれた人たちが超えてはならない一線を跨いでしまっている様子が『臓器農場』では描かれる。そのような行為を許容することは到底できないし、罰されてしかるべきである。
繰り返すが臓器移植の機会を待望している子どもたちがいる以上、シンガーや間島看護婦の主張を全面的に否定することはできない。
しかしだからといって人工的に無脳症児を生み出すようなことがあってはならない。帚木氏が突きつけるのはこのように非常に重いテーマである。氏自身の主張は「無脳症児も人間です」という言葉に表されているように思えるが、私たち一人ひとりもまた考えねばならない問題だろう。
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